通天閣の真下の恵美須町、阪堺電車恵美須町駅の副駅名にも「通天閣前」が入っています。恵美須町から新世界にかけ、ちょっと前まではちょっと怖いおっさんの町だったのですが今は昔、外国人にも人気の観光スポットになっています。
今、通天閣のそびえる場所は、明治末期、大正から昭和初期はというと、1903(明治36)に開催された第5回内国勧業博覧会の会場跡地にルナパークという遊園地ができ先代の通天閣が建設されました。さらに天王寺公園も整備、動物園も開園しました。しばらくしてルナパークは閉場しましたが周辺は劇場や飲食店がひしめく大阪随一の歓楽街でした。

1908(明治41)年8月に市電の2期線となる南北線が梅田から四つ橋、南海難波駅前を経て、当時今宮ともいわれた恵美須町まで開通しており、翌年には恵美須町から東進し天王寺西門前に達しました。その1912(明治42)年5月には、市電大幹線の堺筋線も開通し大阪の中心である船場・北浜と繋がりました。その後、恵美須町南側の霞町・天王寺車庫前を経て阿倍野橋へ、また大国町、桜川へ延長され恵美須町交差点では市電幹線が十字にクロスし、恵美須町は賑わいが集まりそして市内中心部どこへでも行ける便利な地点だったのです。
市電が恵美須町まで開通してから3年後の1911(明治44)年暮れに恵美須町交差点角から、大阪市に伍するパワーがあった堺市の中心部を結ぶ郊外電車の阪堺電気軌道(初代)が開通しました。1914(大正3)年に平野線も開通させ、恵美須町は市内と郊外との交通結節点として非常に重要な地点となりました。
大正半ばには過密で不潔な大阪都心を離れての「郊外生活」がちょっとしたブームとなりました。1度の乗り換えで市内並みに便利な阪堺沿線の天下茶屋や勝間(玉出)、続いて田辺といったところが人気でした。恵美須町は歓楽街の玄関口プラス市内と郊外結節点で、今からは想像がつかないほど多くの人が行き交い、賑わいを呈していました。
1921(大正10)年に大阪市が行った交通調査では、市電恵美須町の乗降客数は梅田に次いで第2位の51,000人でした。また1924(大正13)年に実施された大阪市への通勤通学者(定期券利用者)数の調査で、南海鉄道が他社や省線に比べてズバ抜けて多く25,000人と記録されています。その中で、恵美須町口の阪堺線は南海全体の2割近い4,800人の定期客がありました。

恵美須町は市電の阿倍野橋・大阪駅前間の幹線系統4つのうち大国町・四つ橋経由、南海難波・四つ橋経由、堺筋・北浜経由と3つのゴールデンルートが通っていました。

1938(昭和13)年に地下鉄が天王寺まで開通しましたが、恵美須町は経由せずに、西に1㎞離れた大国町、南に同じく1㎞離れた省線の南側を通りました。阪堺電車から御堂筋方面への客は1つ手前の南霞町で地下鉄動物園前駅に乗り換えてしまうことになり恵美須町の利用は減りましたが、堺筋や四ツ橋筋方面はやはり恵美須町から市電乗り換えが便利でした。
しかし戦後、自動車増加による道路事情の悪化で1963(昭和38)年に四つ橋筋を通る南北線が廃止、市電幹線の一つがなくなり陰りが見えてきました。1966(昭和41)年堺筋線も廃止され恵美須町の交通結節機能はほぼなくなってしまいました。代替はバスとなったもののバスも渋滞に巻き込まれるのは同じでした。1968(昭和43)年には東西方向の市電も廃止され市電全廃を前に恵美須町から市電は消えました。
万国博を控えた1969(昭和44)年暮れ地下鉄堺筋線が開通しました。しかし、地下鉄恵美須町駅の利用客は少なく交通結節機能は小さいものでした。市電廃止後、代替で走り続けた市バスもいつの間にかなくなり、現在では恵美須町近辺は地下鉄堺筋線が一本貫くものの路線バスは全くの空白地区に成り下がってしまいました。
南海もターミナル経営に力を入れた時期もあったのですが難波に比べると微々たるもので恵美須町の賑わいを支えることはできませんでした。
<前の記事 次の記事>
